南日本新聞掲載 連載コラム「永遠の一瞬」より
南日本新聞掲載 連載コラム「永遠の一瞬」より
鹿児島県に初めて本格的なバレ工教室ができて70年(掲載当時)。鹿児島市の白鳥バレエで長くプリマドンナを務め、今は指導育成に当たる白鳥見なみが、自身の歩みと鹿児島のバレエの始まりについてお話します。
あらゆるものがテレビやパソコンの画面から刺激的にあふれだす現代、日本には世界中の芸術が到来し、どの劇場でもいろいろな団体が発表会やコンクールを開けるようになりました。ダンサーも舞台技術者も、たくさんのプロが育っています。
日本のバレエは民間から始まり、民間の応援により根付きました。地方の場合もそうです。1949(昭和24)年、鹿児島にバレエの種をまいた最初の人物がいました。旧満州ハルピンから引き揚げてきた種子島出身の島克平氏と、長野トキ子氏ご夫妻です。お二人はバレエ研究所「白鳥会」を開設なさいました。
鹿児島にはそれまで、洋舞踊しかありませんでした。呉服店の長女に生まれた私は体が弱かったので、3歳から洋舞に親しんでおりました。現代舞踊の草分けである石井漠氏の系列の豊倉舞踊研究所に通いました。
映画が好きだった母・有馬ヱミは、パリ・オペラ座を舞台にしたフランス映画「白鳥の死」のミア・スラヴェンスカのバレエを見て「こんな美しいものがあるだろうか。女の子が生まれたらこれをさせたい」と思ったそうです。そうして私は、できたばかりの白鳥会に入所いたしました。
私は104番目の生徒でした。1年目で100人以上の生徒が集まったわけです。私が最初に言った言葉を、島先生がおかしそうに聞いていたのを思い出します。「私には特別に教えてください。」 誤解のないように弁解させて頂きますが、バレエを人一倍、一生懸命するぞ、という覚悟の言葉だったのです。小学4年のときでした。
すばらしい先生でした。一番最初に上演したのが、大作であるべートーベンのピアノソナタ「月光」や交轡曲第5番「運命」。あの時代が私の独創性の源だと思います。私の独断ですが、島先生が親しみやすく共感を覚える作品を生みだせたのは、脚本家であり、演出家であったからです。
私は中学卒業後、バレリーナを目指して東京へ行こうと心に決めていました。「日本バレエの父」と言われる小牧正英先生がいらっしゃったからです。小牧先生はハルピンから帰国して46年、東京で初めて本格的なグランドバレエ「白鳥の湖」を上演されました。
ですが、島先生ご夫妻が鹿児島を離れることになり、跡を継ぐように言われたのです。私が躊躇していると、母が「あなたが継がなければ、先生のまかれた種・鹿児島のバレエはなくなるのよ。跡を継ぎ、東京に通いなさい」と後押ししてくれました。私は鶴丸高校に進学し、1年生、16歳のとき、白鳥会の2代目となりました。そして小牧先生の元に通いました。
私の師は島先生ご夫妻や小牧先生です。「皆の心が豊かになることをしたい」というエネルギーは大きかった。戦後間もなく「芸術」をやっていたのです。60年前の話ですが、日本のバレエを創ろうとした系譜を、私はここで語る必要があります。魂のバレエを追求した先人を伝えることは大事なことだと思うのです。
16歳、目まぐるしい日々が始まりました。鶴丸高校1年生だった1955(昭和30)年、バレエ研究所「はくちょう白鳥会」の主宰を引き継いだのでした。
バレエの指導にあたった先は、鹿児島市だけではありませんでした。戦中、私たち家族の疎開地だった国分にも支部を置きました。夢中で、考える余裕もなく、ひたすらバレエと学業の毎日。汽車の中、電車の中でずっと勉強し、到着すると稽古。それでもちっとも苦しくはなく、楽しかった。夢と責任で燃えていました。
幼い私が偉大な師から志を受け継ぐのは、大変なことでした。白鳥会を開設された島克平先生は、戦後間もなくオーケストラで本格的なオリジナルバレエ「創造」を制作なさいました。巡回公演の始まりと言える活動もし、種子島で公演したのを覚えています。
私のもう一人の師、東京の小牧正英先生の偉業も伝えなければなりません。先生は海外で上演された作品を、装置、照明、陣容全て最高の状態で、日本にお伝えになりました。「シェヘラザード」「眠れる森の美女」「バラの精」「イーゴリ公」など、本を見ても写真を見ても、その頃最高峰のソ連での上演に劣らないものです。「日輪」などの創作バレエもそうです。また外国からそうそう錚々たるダンサーを次々と招かれました。日本バレエをレベルアップなさったのです。
私は列車で24時間かけて、小牧先生のバレエ団がある東京・洗足(目黒)に通いました。母がおにぎり、卵焼き、さつま揚げを入れたお弁当を持たせてくれました。お母さん子だった私は、泣きながらそれを食べ、つかの間の別れを噛みしめました。北九州を過ぎる頃に泣きやんで、稽古に向かう心へと切り替わりました。
その頃の小牧バレエは、熱心な気鋭のバレリーナたちで溢れていました。そこへ地方から行っているのですから、競争心しかなかったと思います。同じ門下生から「鹿児島って身近にお猿が出てくるでしょ?」と言われ、辺地のように思われていることが悔しかった。「あなたたちが満員電車に乗っているとき、私たちはお稽古できるのよ」と言いました。
1979年、小牧先生の創作バレエ「やまとへの道」が、日本バレエ協会フェスティバルとして東京文化会館で上演されました。主役は当時大活躍のプリマ本田世津子氏でした。私は第3幕の佳境、ただ一つの個性的なパ・ド・ドゥ(2人の踊り)を頂きました。本当に嬉しかったです。たった一人の地方からのダンサーが、大きな役を射止めたのですから。忘れもしません。
リハーサルのとき、オーケストラが契約時間切れを理由に、第3幕の前で帰ってしまいました。私の相手役の男性は「ダンサー生命を断たれるから降りる」と言い出しました。私は「地方からわざわざ出てきて、この舞台を失うわけにはいかない」と強く思い、「音は頭の中に入っている。私について来てくれれば大丈夫」と言いました。
さて本番。第3幕では舞台の上を東京勢90人が取り囲みました。私とパートナーのリフトを180の目がじっと見つめていました。舞台上の見えない戦いでした。プリマの気概で踊った覚えがあります。あの一瞬に私の人生がかかっていました。今思うと、鹿児島でプリマとして年に何十公演もやってきたプライドや積み重ねのおかげで、乗り越えられたのです。
そうやって走り続け、もう70年になろうとしています。
私が鶴丸高校(鹿児島市)を卒業した1958(昭和33)年、創作バレエを始めました。
私が引き継いだ「はくちょう白鳥会」は55年、名称を「白鳥バレエ研究所」へと変更しました。創作に取り組んだのは、私たちの団員を生き生きと踊らせるためでした。
今考えると、大変珍しい、私にとってありがたいことがありました。卒業記念発表会を、鶴丸高校の後援で行うことができたのです。当時の校長先生のお取り計らいがうれしかった。
校長先生は厳格な教育家でした。高校2年のとき、「種子烏に巡回公演に行くので学校を早退させてほしい」と願い出たところ、「ここは勉強をするところです。それはできません」と言われました。学校から急いで港へ向かい、種子島行きの船に片足を入れた途端、岸から離れました。今でも夢に出てきます(笑)。校長先生は卒業したとき「よく両立なさいました」と言ってくださいました。
卒業記念発表会は、鹿児島市の山形屋劇場で開き、盛りだくさんの創作オンパレードとなりました。チャイコフスキーの交密曲第6番「悲愴」を使った、姫と龍王の悲恋物語「ラインの悲歌」。牛若丸と弁慶の五条橋での出会いをバレエ的に創作した「初秋の幻想」。童謡「かなりや」をアレンジした「カナリア」。そして「タベ野路にて」の4本立てでした。
「タベ野路にて」はその年、福岡での西日本合同祭で上演しました。西日本新聞の学芸部長に「これから九州を背負って立つのは白鳥だろう」との評価を頂きました。郷愁をそそる温かい作品だったので、きっと気に入られたのだと思います。その方は評論家として通っていらっしゃる方だったので、うれしかったです。
若い者への評価にやっかみもあったのでしょう。記事掲載の後、わざわざ鹿児島にいらしておっしゃいました。「嫉妬は多いでしょうが、頑張ってくださいね」と。日本のグランドバレエを作曲し創作するようなバレエ団は、九州でほかにありませんでした。
鹿児島にバレエの種がまかれ10周年となる1959年、白鳥バレエ研究所の支部を鹿屋に置きました。また、鹿児島初演となる「白鳥の湖」と「ジゼル」を鹿児島市の中央公民館で披露しました。
プロダンサーを育てるために十分な練習時間が必要でした。62年、団員がアルバイトできるようにと、バレエ研究所で製菓会社を造り、工場を練習場の横に建てました。団員は仕事を早く切り上げ、練習に励みました。
10周年は無謀ともいえる欲張りな公演を県文化センターで行いました。初日に「白鳥の湖」、翌日に「ジゼル」と大作2本を連日で上演したのです。29歳のときです。
公演を前に霧島市のお寺で合宿をしました。朝は実技を、夜は表現力を教え、「ジゼル」の狂乱の場などをゆっくり指導できました。一日中「白鳥の湖」を猛練習した後のこと。皆疲れてぐっすり眠っていると思って、最後の見回りをしました。リズミカルな声がするので雨戸をそっと開けて見ると、4羽の白鳥たちが庭で夢中になり練習をしていました。そのとき、公演の成功を確信しました。
その確信の通り、公演は大好評でした。プリマはどちらも私1人で務めました。意欲に任せて突っ走ったのでした。
その勢いは衰えず、「中央切り込み隊」として東京へ進出していくのでした。
2014年10月、白鳥バレエ創立65周年記念公演として、創作バレエ「ヤマトタケル」(全3幕)を鹿児島市民文化ホールで再演しました。娘・白鳥五十鈴が主役を務めた公演で、その魅力を再確認いたしました。
戦いに明け暮れた戦士の虚しさと恋、それにほんろう翻弄される女性。人のはかな儚さを描いた大作です。ドラマ性あり、神話のロマンチシズムあり。美しく編曲された音楽と情感を浮き立たせる照明で、公演を重ねるごとにますます豊かなものになりました。「ヤマトタケル」という作品は世に残すべき名作である、との評をあらためて頂きました。
日本の夜明けを語り継ぐためのこの大作は、母・有馬ヱミと感動の涙を流しながら親子で創り上げました。その初演は20周年を迎えた1969(昭和44)年のことでした。
鹿児島で育んだバレエで、自分たちの力で、どのくらい成熟した芸術作品が創り上げられるかを示したい、という意気込みで取り組みました。私は文化庁芸術祭への出品を申請したのです。大きな壁があるとは知らずに。
私たちに届いたのは、却下の知らせでした。地方から参加の例がない、というのが理由でした。それもそのはず、地方からは初の参加表明だったのです。また、専門家中の専門家でなければ参加できない日本の芸術の頂点を競う場であり、まだ白鳥バレエの公演を見たことがない、というのも理由でした。
これにはとても悔しい思いをしました。皆必死で夢の実現に突き進んでいました。団員たちがバレエの訓練に従事できるよう、菓子工場を起業してアルバイトの場をつくったり、地方公演をしたりしてきました。私と母は、恐るべき行動に出たのです。
文化庁へ乗り込んで行きました。「これは東京の芸術祭ですか?日本の芸術祭ではないのですか?」と異義を申し立てました。結果、再審査。素晴らしい懐の深い芸術課長さんでいらっしゃいました。却下の決定を覆してくださったのです。「この知らせは直接、白鳥さんにお伝えしたい」と鹿屋の合宿所までお電話をくださいました。その知らせを聞いたときの喜びは、今でも忘れません。それからは一層、一丸となる私たちでした。
全てが評価されると思いました。作品はもちろん、ダンサーの質や、動員へかける意気込みも。関東地区を中心に鹿児島、宮崎両県に縁のある人たちでつくる三州倶楽部へ出かけて行って話を聞いてもらったり、企業、自治省、警察庁、マスコミを訪問したり。一日で何ヶ所回ったことか。電車の中も座らずに走り(笑)、要人とのアポイントに間に合うよう駆け回りました。こうした苦労を経て、芸術祭での披露に至ったのです。
創作バレエ「ヤマトタケル」は1969(昭和44)年11月7日、文化庁芸術祭作品として東京厚生年金会館大ホールで上演されました。
私が当初、どのような思いだったか。鹿児島は外来、県外のものをひいき贔屓にする、良く言えば謙虚、悪く言えば卑下する気風に、悔しい思いをいたしました。私たちは本質を見てほしいという思いと、日本の神話だって鹿児島から始まっているじゃないか!という思いとで、郷土を誇れるものが創りたかったのです。
この作品は、薩摩鶏が日本の夜明けを告げる、斬新な幕開けとなりました。
皇子ヤマトタケルと南九州の勇者クマソタケル。その2人の間で揺れ動く、村長の娘クサヒメ。戦いに明け暮れるヤマトタケルの虚しさや人間像、土着の人々の生き生きとした情景。恋の要素が詰め込まれ、ドラマを盛り上げます。
初めての三幕もの。しかも日本の神話を基にした他にお手本のない作品で、芸術祭参加作品でもありました。私は振り付けに集中するため、部屋にこもりました。時計もない、テレビもない所で、テープレコーダーと共に過ごし、疲れ果てては眠りました。まず初めの1週間、ただ音楽を聴き、想像し続けました。産みの苦しみでした。クマソの野性的な踊りのイメージが湧き始めました。そこからは次々と浮かんできました。あの苦労は、その後も大きな自信となった気がします。
芸術祭を前に訓練の日々が続いたのは当然のこと。オーケストラの音合わせの数日を終え、上演前日、2400席の会場へ到着した時、私は皆を裏玄関から入館させたのです。なぜかと申しますと、団員がホールの豪華さにおじけづくといけないと思ったからです。
野性味あふれるクマソタケルを小林恭氏が、りり凜々しいヤマトタケルを私の弟・有馬秀人が演じました。全く違ったタイプの2人の英雄が対峙する姿もバレエならではの舞踊表現であり、素敵に創り上げることができました。
私はクサヒメを踊りました。素朴な娘から恋する乙女となり、引き裂かれ運命にもてあそばれ、強くはかな儚くこわれていく様子は、役者みょうり冥利、いえバレリーナ冥利につきる役といえます。私は情熱的なクサヒメだったと思います。
小林氏は東京バレエ団創立メンバーでプリンシパル。後世に残すべき日本のオリジナル作品や、深い解釈のグランドバレエ改訂公演を盛んに上演した、伝説のダンサーです。クマソが乗り移ったように、迫真の演技をしてくださいました。
弟の有馬秀人は文学座を経て、共に舞台を踏みました。その下の弟の賢太郎は芸名・大山順二としてクマソの兵士役で舞台に上がりました。全員伸び伸びと、自分の小屋のように堂々と踊りました。
圧倒された審査員は「鹿児島は踊り好きな県なのですか?」と発言されたほどでした。ありがたいことに、新参者の私たちは大きな拍手で称賛されたのです。ホールには東京在住の鹿児島出身者がたくさん集まってくださり、「ブラボー」ではなく「よかどー」の声が掛かりました。
このようにして歴史を刻むことのできた「ヤマトタケル」は、惜しくも芸術祭賞は逃しました。ですが、創作にまつわるあらゆる苦労を喜びへと変え、精進するきっかけとなりました。
これをバネにますます必死の努力をしました。鍛錬を惜しまない日々が続き、「耶馬台」「平家物語」を創る意欲へつながったとも申し上げられるでしょう。私が29歳の時の話です。
1969(昭和44)年の文化庁芸術祭への参加作品「ヤマトタケル」は、東京のバレエ界はもとより多くの観客が惜しみない拍手を送る、超満員の盛況でした。無名の地方バレエ団にとっては、歴史的な公演となりました。
本格的オルジナルの作曲を依頼し、総員40余人が制作から作曲、振り付け、演出まで。 観客動員に力を注いだのはもちろん、鹿児島からオリジナルの創作バレエをひっさげての東京公演という意欲からでありました。
この公演はテレビ東京(東京12チャンネル)が興味を示してくださり、ドキュメンタリー「青春」の制作となりました。発端から日々の練習、晴れの舞台までを放映しました。また、公演を取材した鹿児島新報の記者が75年、私のバレエ活動を紹介する記事の中で、こう書いてくださいました。
「真紅のどんちょう緞帳が静かに重く、舞台と観客席をさえぎるように降りた。徐々に明るくなった場内に、しばらく水を打ったような静けさが漂った。しかしそれもわずかの時間。どよめきがどとう怒涛のような拍手に。これまでの常識を破る純日本的古典バレエのすばらしさに期せずして送られる拍手であった」
当時、中央斬り込み隊という意気込みで東京公演を果たしたのです。芸術祭参加は、上演後の活動に大きな転機となりました。
まず財団法人民主音楽協会(民音)主催の「九州巡回公演」(70年5月21〜27日、福岡県飯塚市、長崎市など7カ所)や、財団法人九州沖縄文化協会と琉球政府共催の「第3回九州沖縄芸術祭」(71年8月8、9日、沖縄県那覇市)などで上演を重ねました。
民音は、世界的なバレエ団やオーケストラを呼んだり、世界指揮者コンクールを開催したりしていました。そこからオファーを受けるということは、クラシックの世界で誇りでした。国内のバレエ団で上演していたのは東京バレエ団、松山バレエ団のほかは、白鳥バレエ団だけでした。
沖縄公演の後日談ですが、現在沖縄で活躍される先生方から「ヤマトタケルを見てバレエを始めたんです!」という、うれしい話を聞きました。復帰前だった当時の沖縄は国外。皆パスポートを持ち入国した芸術祭でした。
ヤマトタケルは各地で喜ばれ、毎年巡演することになりました。「ジゼル全幕」や「ロシア民族舞踊集」「オーケストラと一緒」など、これらはバレエ団として力をつける大きなキャリアとなり海外公演へとつながりました。私の31歳は舞台、舞台の日々でした。
1969(昭和44)年に文化庁芸術祭に初参加した後、結婚もしました。夫は、東京のシステムエンジニアで、鹿児島出身の野村良忠です。その後、九州巡回公演(財団法人民主音楽協会主催)を皮切りに各地で公演を続け、1972年に待望の娘(五十鈴)を出産。普通であれば少し休むべきところでしたが、芸術祭への2回目の参加となる創作バレエ「耶馬台」に取りかかりました。
というのも、文化庁から毎年、参加を促されていたのです。毎年は制作費が足りず困難なので、4年に1回を目標にしました。異色のバレエ団として注目していただけたことは、とてもうれしいことです。鹿児島から日本人の心の表現を広く発信したいという思いで突き進んできた者としては、とてもありがたいことでした。
資金面では四苦八苦の連続でした。公演は満席でも、芸術祭初参加から数年間で、3千万円以上の赤字を出しました。当時、学校の校舎を建設できるぐらいの金額でした。もちろんお金をかけなくても公演はできます。でも、粗末な舞台で観客を欺いてはならない。
「お金がかかっても、自分で納得したバレエであれば、その損失は豊かになった観客の心が補ってくれる」。私たちはそう思っていました。
耶馬台の時代は2世紀後半から3世紀にかけて。ですが、人間の心は現代とそう違うはずがありません。その時代を模索しながら現代のバレエに移し変える。原点に返ったバレエこそ本当の輝きを放つ。今でもその思いは創作の核となっています。耶馬台で73年の芸術祭に参加したほか、大阪公演もしました。
翌1974年、鹿児島県バレエ協会が設立しました。私は会長に就任し、「青少年のための芸術鑑賞事業」で県内20カ所を回りました。その頃、どの県にもまだ、そのような文化事業はありませんでした。鹿児島の文化行政が進んでいたということであり、とても誇らしいことです。巡回公演では、バレエ初体験の学校の生徒や地域の皆さまの感動に輝いた顔が、私たちのエネルギーヘと変わりました。
たくさんの実験的な活動も、私たちの力となりました。振り返ってみると、夢のような企画に感じるのでお伝えします。鹿児島市の鴨池動物園で夜、白鳥バレエ団を率いて野外公演したのです。
9月の十五夜に、動物園を京の都(五条河原)に置き換え、初秋の幻想「源平盛衰記」を演じました。ダンサーは月見草の精や源氏の兵士、常盤御前、牛若丸(義経)、弁慶などにふん扮し、さぁ開演!スポットライトがこうこう煽々と照らすと、戦場へ駆けつけた3頭の馬が驚いて前脚を上げていななき、それがド迫力の演出となりました。市民の皆さまも、またとない幻想の世界を楽しんでくださったようでした。
今となっては、とても斬新と思える試みにも挑戦しました。南日本放送(MBC)が16年に文化庁芸術祭へ出品したバレエドラマ「墓標のふ賦」の制作に参加したのです。農村の日常生活のシリアスなドラマをバレエで創作したのです。現代、バラエティーでバレエの異質さがおもしろく描かれ、親しみを持たれるようになったことは喜ばしいことですが、変わり続ける時代の流れの中にも不変の源流はあると信じ、精進していきたいと思っています。
娘・五十鈴3歳の時、1975(昭和50) 年、私はフランスに飛びました。20世紀最高の振付師モーリス・ベジャールに会いたかったのです。
出会えたのはまさに導きとしか例えようのないタイミングでした。フランスに8年居る日本人ダンサーが一度も会えなかったのに、すぐに会うことができたのです。ベジャールは全盛期、世界を飛び回っていました。こんな幸運があるでしょうか。私は、あの「ボレロ」の出来上がっていくさまを目の当たりにしたのです。
ボレロと言えば、ジョルジュ・ドンですが、最初にボレロを踊ったのは、なんとソ連からベジャールの元に来たマイヤ・プリセツカヤだったのです。「愛と哀しみのボレロ」でドンがスターになる15年も前のことです。ベジャールはドンに「我々のファウスト」という大作を与えました。ドンを鍛え、自らも踊り、新作に打ち込むベジャールの姿は刺激的でした。
「奇抜さ」から「美」に移る絶妙さに、いつも魅了されました。私は強く思いました。「私の好きにやっていいんだ」。自分の発想で世界を魅了するベジャールを見て、日本のバレエを作り続けようと思ったのです。
フランスのほか、ソ連、ベルギーで学びました。ソ連ではクラシックの殿堂、中枢に触れることができました。ソ連の最高指導者であるセルゲイエフ、ドジンスカヤ夫妻と出会えたのです。これもまた数奇なことで、かのバリシニコフとマカロワの亡命により、両夫妻がワガノワバレエ学校へ左遷※になったからでした。ちなみに、現在でも、両夫妻の弟子たちが毎年鹿児島を訪れ、交流が続いております。
さて、16年、フランスの第一舞踊手で金冠受賞者であるミッシェル・ブルエルを招聘しました。本場の「ジゼル」がやりたかったのです。彼の腰は高く、体の3分の2が足というくらいでした。世界レベルと一緒にステップを踏み、並んで跳ぶとなると、余計に高く跳躍しなければなりません。県知事主催の歓迎パーティーで、私はこう挨拶しました。「世界一長い足と、世界一短い足が踊ります」。すると「薩摩おごじょ、頑張れ」との声援をいただきました。
私はミッシェルから、ノーブル(貴賓)についても教えられました。役柄と同じく貴族の出である彼は、たたず佇んでいるだけで貴族そのものでした。ジゼルの死のシーンでも、取り乱すような感情過多な演技にせず、少しの表情の変化で悲しさがより深く表れました。
そんなミッシェルがたった一つ、とてもうれしいことを言いました。「今まで踊った中で、マダム白鳥が一番踊りやすい!」。彼は各国の名だたるプリマとしか踊っていないダンサーでした。この一言は大きな自信となりました。最近、ライバルについて聞かれたことがあるのですが、その時は不思議とピンときませんでした。
1979年、ミッシェルが再来日し、白鳥バレエ創立30周年記念の「ジゼル」公演がありました。白鳥バレエ後援会も発足し、パーティーで鹿児島市長や県議などを務めた平瀬實武氏がおっしゃいました。
「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界は変わっていただろうと言われます。白鳥の脚があと10センチ長かったら、世界のバレエは変わっていたことでしょう」。もったいないお言葉でした。鹿児島を拠点に選んだ私は、団を育て、作品を創作し、他に並びないものとなる。その志を立てたのです。ライバルは?と聞かれたら、おこがましくも「10センチ」と答えさせていただきます。
私はあの喝采を忘れることができません。言葉の通じない観客5500人の熱を一身に浴び、大変なプレッシャーから解き放たれた瞬間です。各国の芸術ジャンルの招待団体、フランス、イギリスの劇団、韓国国立舞踊団、ウィーン少年合唱団、そして、日本の白鳥バレエ…。日本の代表として恥ずかしくない舞台にしたかったのです。
1980(昭和55)年12月17日、シンガポール芸術節は白鳥バレエ団の公演で幕を閉じました。舞台裏は大きな興奮が渦巻いていました。詰めかけた外国人たちの大きな輪の中に、白いチュチュ(衣装)の鹿児島のバレリーナたちがもみくちゃになりながら、祝福を受けていました。世界の名作といわれる「白鳥の湖」を踊り終え、顔も体も玉の汗で光り、目は感動の涙で濡れていました。
公演の申し入れがあったのは5月初旬。創立30周年来、海外との交流を積極的に進めていた白鳥バレエ団にとっては、またとない機会でしたが、いろいろ検討した結果、招待受け入れを断念しました。鎌田要人・鹿児島県知事宛てに再度、招待の申し込みがあったのは、そのひと月後でした。
招待状によると、クラシック・バレエの中でも、日本ならではのテーマで創作する私たちの舞台を見たい、という主催者側の熱望の前に、困難な条件でも招待を受け入れざるを得なくなりました。Aプログラムに創作バレエ「古代への追想」(全3幕)、Bプログラムに古典バレエの代表作「白鳥の湖」(第2幕)と日本の四季を表現した「日本の郷愁」。メンバーもベストな50人を編成し、猛レッスンが始まりました。
一方、県や後援会の手で「団の負担を少しでも軽く」と、物心両面の援助が始まりました。多くの激励の中、一行が鹿児島空港を飛び立ったのは12月12日でした。
到着2日目、早くも公演準備と並行して文化交流が始まりました。国内で最も優れたバレエ団シンガポールアカデミーでの特別講師として、レッスンをしたのです。英国ロイヤルバレエ仕込みのシンガポールは想像していたよりレベルが高く、ロシアンバレエの流れをくむ私のレッスンは大変興味を持たれました。時間さえ許されれば追加レッスンもするところでしたが、公演前の慌ただしい身ゆえ、残念ながらお断りしなければなりませんでした。
また、大学の舞踊研究会メンバーたちとのディスカッションに招かれ「日本のバレエ」「鹿児島のバレエ」について講演しました。
公演で一番不安だったのは、観客の反応でしたが、新聞5社の30回以上の報道のおかげもあり、2公演で5500人を動員(主催者発表)しました。Aプロ、Bプロとも大きなアンコールにとどまらず、終演後には舞踊関係者や初めて顔を合わす人たちが多数、舞台裏へ祝福に押しかけました。
シンガポール側の日本、そして鹿児島との文化交流に対する期待は大きかったです。芸術節に参加した大半が国立の団体だったにもかかわらず、鹿児島のバレエ団を閉幕行事の催しにしたこと、そして翌年4月シンガポールの日本文化使節団が新たに鹿児島の視察をスケジュールに組んだことでも理解できます。
1981年の白鳥バレエは2本の古典バレエ上演のため、休む間もなくレッスンに次ぐレッスンでした。シンガポール芸術節を視察したヨーロッパのある国からフェスティバルヘの招待話も舞い込み、レッスンにも一段と熱のこもる日々でありました。
1980(昭和55) 年12月のシンガポール公演を終えた私たちは、また舞台に明け暮れました。私のバレエ人生にとっては、今までなかった日本の創作バレエに取り組むことのほか、たくさんの古典に打ち込むことも大切でした。今も昔も、大人も子どもも心躍らせて鑑賞する「くるみ割り人形」や「眠れる森の美女」は、その中の重要な作品です。
私は団員たちと鹿児島の津々浦々で上演しました。ポーランドの第1舞踊手ジスワス・スィオロー氏や、土田三郎氏(貝谷バレエ團プリンシパル)も招き、本公演や巡回公演を行ったのです。
私たちが地方公演を大切にするのは、戦後の文化芸術に飢えた時代を知っているからかもしれません。現代においても、生身の芸術であるバレエは人の心を潤わすものであると申し上げたいです。
かつて校内暴力がマスコミを賑わしていた時代、弟(白鳥バレエ事務局長の故・有馬秀人)が同窓生から「息子が立ち直ったので、お前さあには足を向けられんごっ感謝しちょっと」と打ち明けられました。父に反抗していた少年が、学校でのバレエ鑑賞会で心に大きな変化があったのか、その後の態度が大きく変わったそうです。他の生徒たちにも影響を与えたのでしょう、校内暴力も収まったとの報告ももらいました。心根の純粋な若い芽を愛おしく感じる素晴らしい思い出です。
当時盛んに上演した作品「くるみ割り人形」は、全3幕の大掛かりな装置をすべて持っていく「引っ越し公演」で行いました。1本の大作を丸ごと見ることができた子どもたちは興奮し、目を輝かせてサインをもらいに来たのを覚えております。チャイコフスキーの音楽は、踊り手の心も観客の心も高揚させ、バレエの玉手箱のようにファンタジックな世界へ誘います。1981年から9年間、毎年公演しました。
「レ・シルフィード」(ショピニアーナ)も大好きな古典の一つです。この作品は、初演当時で言うと、筋書きのない、革新的なものでありました。ショパンの美しい曲調を詩的に具現化した、この世のものとは思えない美の世界を生み出します。その一つ一つの動きの情感や全体の構成の麗しさは秀逸で時間を忘れさせ、白昼夢をこうこつ恍惚と見ているようです。
1983年、社団法人日本バレエ協会の九州南支部が設立され、私は支部長に就任いたしました。翌年には、熊本、大分、宮崎、鹿児島の4県が集結し、日本バレエ協会の一大事業であった「全国合同バレエのタベ」にて「レ・シルフィード」を上演。私は大好きなフォーキン作品を指導するにあたり、南九州の若手たちの全てが全身全霊を踊りにそそぎ輝くよう、群舞の一人一人にまでプリマの雰囲気を伝えました。
その丁寧な表現はとても好感のもてるものであったらしく、ビデオを欲しがる他の支部の先生方もいらっしゃったと聞きます。今、その若手たちは、それぞれの県の重鎮となり、今もなお後進の指導に力を注いでいらっしゃいます。
1989年、私は大阪空港に降り立ちました。バレエ人生を注ぎ込める題材と向き合う旅でした。鞍馬、嵯峨野、大原…。目的地は詳しく決めず、歴史上の魅力的な人物たちに思いをめぐらしました。大好きな義経や祇王などが頭をよぎりました。なんとなく私が向かったのは、大原の寂光院でした。
運よく平清盛の長男・重盛の子孫であられる小松ちこう智光門主からお話を伺うことができました。小松門主は女性で初めて天台宗の最高位の大僧正になった方です。
寂光院は、清盛の娘・建礼門院が隠居した所です。壇ノ浦で入水を図ったものの助けられた後、念仏ざんまい三昧で一生を過ごしたという、その部屋からの静かな花々の息吹と、小松門主の語る建礼門院の最期のイメージは、私を一瞬にしてとりこ虜にしました。舞台のラストシーンはそのときもう出来上がったのです。愛する人々を全て失った戦乱の世を、白椿を眺めながら思いたたずむ尊い姿は、私に強いインスピレーションを与えました。
小松門主はこうおっしゃいました。「あなたさまが平家物語を創られるのであれば、悲しく暗いだけの平家物語ではなく、明るく仕上げてください。平家は一族みんな仲良く栄え、仲良く滅んだのです。同族で争うことのなかった一族です」
私はすぐに動き始めました。以前から親交のあった劇団文学座の杉村春子先生主演の「怪談ぼたん牡丹灯籠」という作品で脚本家の大西信之氏を知り、台本を依頼することにしました。出来上がってきたのは清盛のあいしょう愛妾「祇王の巻」と、清盛の娘「建礼門院徳子の巻」。二役を私が一人で演じ分けるという、女性が軸の作品で、清盛は専横ぶりが中心になっていました。
私は、清盛を軸にして平家一族を描きたかったのです。女性の心理に普遍性はあるかもしれません。ですが、平安時代が武士道と日本のみやび雅情緒を描くのには1番だと思っていた私は、もっと平家物語の底に流れているものを大事に描きたかったのです。
台本は、母ヱミがバレエ用に書き直したものを使用することになりました。作曲は、当時貝谷バレエ団に作品を提供していた小島佳男氏に依頼し、台本に合わせて情景を踊りながら説明し、構成していきました。
衣装デザインは和物を得意とする橋本直枝さん、製作は東宝衣装でした。橋本さんとは繰り返し、雅の十二ひとえ単をどのように軽い素材で作り、踊りやすいようにするか、試行錯誤の上でデザインされました。美術は、13(昭和48) 年の文化庁芸術祭参加作品「邪馬台」で、斬新な美術で話題になった有賀二郎氏に依頼しました。
あとは私の振り付けです。ポワントを履いて踊る女性たちが繊細な日本女性の心理や慎ましさを踊る振り付けは、難しそうですが、面白いものでした。制約が新しいものを生み出します。指揮は、当時目覚ましい活躍を見せていた末廣誠先生。出来上がった音楽はイメージにぴったりの感動的なもので、振り付けはすらすらと出来上がったのです。
まずは90(平成2)年1月の40周年地元公演、そして10月はいよいよ文化庁芸術祭の参加です。すべて寂光院で感じた「永遠の一瞬」から始まりました。初めてめ愛でる“散り椿”を眺めながら。
3度目の文化庁芸術祭参加となる「平家物語」は、1990(平成2)年10月15日、東京メルパルクホールで上演いたしました。
演奏は東京フィルハーモニー交交響団、指揮は末廣誠先生。鹿児島県人会の協力もあり満席でした。私は、興奮する弟やスタッフたちの気迫でほとんど眠れぬまま、踊りました。何かに踊らされているかのようで、白鳥見なみであったか、建礼門院がのりうつったか、言葉通り「無心」であったと記億しています。
観客席からの拍手は静かに長く続きました。幕が下りる時、自然と合掌した私はうちふるえながら、涙がこみ上げてくるのを感じました。初めての感覚でした。
鹿児島公演での初演の時から作品に没入した団員たち、支えてくれた家族。ゲストも含め、わが作品としてのプライドを持って駆け抜けてきた一体感に包まれました。あのような幸福な舞台を移動公演で実現できたことは、やはり今でもなお、稀なものだと思い起こします。
その年の芸術祭賞は松山バレエ団の「シンデレラ」となりましたが、批評家たちは私たちを称賛する記事を寄せてくださいました。せんえつ僭越ながら、その一部を紹介させていただきます。
「再演、三演と重ねて鹿児島バレエの財産として残してほしい。外国のバレエ団から作品を貸してください、という動きでも出てくればいいですね」(高柳守雄氏)
「この『平家物語』をボリショイ・バレエ団が取り上げ、(野性味あふれる演技で一世を風靡した演技派の)タランダが平清盛の役を演じたら…、等と考えると楽しい。そんなことがあっても決しておかしくないと思わせるほどの出来映えなのだ」(山野博大氏)
「よく整理された流れ、団員たちの目いっばいの演技が相乗的に作用して、本当によいものを見たという印象が残った。鹿児島から上京したというハンディを考えるとき、これだけの完成度のあるバレエを作ったということ自体が驚き」(同)
高柳氏は「週刊オン☆ステージ新聞」で、90年の「邦人舞踊公演ベスト3」にも挙げてくださいました。ほかの方からは「日本の『白鳥の湖』ができましたね」という言葉もいただきました。日本を飛び出し世界の舞台へと飛躍させた高評価には、今なお興奮します。
芸術祭賞は逃しましたが、バレエ界の権威ある橘秋子賞功労賞と、芸術文化振興基金(第1回)の助成が与えられました。これは、「平家物語」に対する最高の評価であると感じました。長年、地方からバレエの芸術作品を発表し続けてきたことがやっと認められたと、大層うれしいことでした。今まで応援を重ねてくださった方々への感謝と、「平家物語」という作品が生まれるまでの出会いや気付き、インスピレーション、苦労の数々へのいとお愛しさを、ひしひしと感じました。
それから20年、再演を重ねました。民音例会での公演、鹿児島市民文化ホール自主文化事業としての舞台、私のファイナルステージとなった白鳥バレエ60周年記念公演などで、たくさんのお客さまに愛されました。
白鳥バレエは創立70周年を記念して「平家物語」を上演しました。また、かけがえのない「永遠の一瞬」を見ることができました。現代人に贈るもののあわれ、日本の雅、バレエの美しさ…。どのように皆さまの心に届けられるでしょうか。私どもの愛する一大叙事詩「平家物語」への新たな戦いと入魂の日々は続いています。
バレエの世界には、学び終わるということがありません。伝統的な芸術も常に新たな境地を目指し、変わり続けていきます。もっとエレガントに、もっと鋭く。技術も表現も洗練されてきます。
創立40周年を過ぎ、私たちは有意義な交流の機会を得ました。ロシアのバレエ団とのジョイント公演を1997年より約10年にわたり開催したのです。成熟したフォームとメソッドを十分に取り入れ、プロダンサーの日々の鍛練の厳しさを本場ロシアから学ぶことは、私たちの飛躍を意味していました。ロシアで活躍するプリマと同じ舞台に立つ子どもたちは、大きな刺激を受け、成長しました。
中でも「ロミオとジュリエット」は、白鳥バレエの貴重なレパートリーとなりました。娘の五十鈴は文学座で演劇を学び、役者としても活動していました。それまでもドラマチックな役柄でないと興味を示さないところがあったのですが、憧れの演目で、しかもジュリエット役。私はチャンスとばかりに背中を押したのです。
それは、彼女がボリショイヘの短期留学でつかんだ好機であり、創立50周年にふさわしい格式ある作品でもあったからです。娘はあまりのプレッシャーに、はじめ尻込みをしました。でも私には自信がありました。ロシアの男性ダンサーはダイナミックで力強いパ・ド・ドゥ(2人の踊り)を見せてくれます。団にとって貴重な経験となり、また観客もバレエで見る「ロミオとジュリエット」がいかに素晴らしいかが分かります。
振付師エレーナ・レレンコワの厳しい指導は、娘にはありがたいむち鞭となりました。五十鈴は、ボリショイ出身のロミオを相手役に、とても長い愛のパ・ド・ドゥや死に至るまでのジュリエットを輝きに満ちて演じ切り、意義深い公演となりました。
私は、子どもたちの心のバレエも大切にしたかったので、2代目を継いだ16歳の発表会で、「親指姫」や、牛若丸をヒーローにした「初秋の幻想」を披露しました。子どもたちの情操教育と感性を培うため、世界の童話(アンデルセン、グリム、メーテルリンク、ペロー)や日本の昔話のほか、母の創作童話など26の作品をバレエ化しています。
1992年、わが鹿児島の誇る児童文学者・椋鳩十の児菫文学賞の制定記念として、椋先生の「月夜とおしどり」を基にした「おしどり物語」を創作しました。その後も、椋先生の幼少期を描いたノスタルジックな作品「夕焼け色のさようなら」、戦争と動物愛を描いた「マヤの一生」を創りました。作曲は「平家物語」をお願いした故・小島佳男先生。とても贅沢なことですが、大人も子どもも、日本人も日本人でなくても伝わる、椋作品の「温もり」を大切にしたかったのです。かごしま児童文学フェスティバルで披露し、審査員の方々から、椋作品をバレエで見るとは思わなかったとお褒めをいただきました。「おしどり物語」は東京でも公演し異彩を放ち好評でした。
1992年に南日本文化賞、2003年に地域文化功労者文部科学大臣表彰、2004年に鹿児島県民表彰を受けました。地域文化功労者表彰式では、最若年でありながら代表として壇上に上がりました。ここまでの苦しみも多かった「永遠の一瞬」を美しいものに変える効力があり、今も励みになっています。
バレエ鹿児島上陸から70年…。毎年のように日本人が世界有数のコンクールで受賞したニュースが流れます。海外バレエ団のトップで活躍する踊り手も増え、バレエの裾野は広がりました。
東京には世界中の有名ダンサーたちが来日し、芸術性の高い作品を上演します。心待ちにするファンも多いと言えます。一方、地方は過疎化が進み経済格差も広がっています。鹿児島を含めて地方で芸術活動を続けることは、困難な道を険しい方へ進んでいくことだと感じています。
2009年、私たちは60周年記念公演を2日間、鹿児島市民文化ホールで上演することとなりました。演目は、日本の心を描いた「平家物語」。国の芸術祭に参加するには、作品、構成、音楽、ダンサー、舞台効果、演出の全てにおいて、完成度を極めなければなりません。磨かれた作品は、愛好家の方々だけでなく、バレエを知らない人にも訴える力を持つと、心から信じています。
「平家物語」は白鳥バレエにとって重要な作品であり、日本の美徳、情緒、みやび雅が詰まっています。「日本の心と西洋の美」の融合を正しく表現できる作品です。個人の華やかなテクニックで会場は沸きますが、実はダンサーとは舞台芸術の1要素でしかありません。作品あってこその踊り手なのです。1曲のヴァリアシォンにせよ、どんな心をどんなシーンで踊っているのか。全体の役作りの中でその役をきちんと表現できているのか。演じ手のだいご醍醐味は、魅力的な役作りのため、作品の理解をいかに深められるかにあるのです。
私はラストステージをこの60周年公演にし、プリマを娘に譲りました。娘は“白鳥”を襲名し、白鳥五十鈴となりました。建礼門院徳子(平清盛の娘)役を壮年期を五十鈴が、晩年期を私が演じました。70歳にして舞台演出家、踊り手として洗練を極めようと志し、見えた世界は大きいと感じました。
ダンサーは体で表現する全てに、心も、生き様も、日常も表れます。入水の景から海底浄士の景までは、美しく浮遊感のある数々のリフトを盛り込みました。サポートされる女性が美しく体を保つには技術が必要です。私が40年近く必死で研究し編み出し培ってきた「白鳥メソッド(方法)」を体現する貴重な舞台となりました。
私はパ・ド・ドゥ(2人の踊り)、中でも特にリフトには、少なからず自負がありました。男性パートナーの感想にも、そう思う裏付けがあったからです。しかし10年の年月を経た肉体は、弾けるような筋肉に覆われてはいませんでした。だからこそ私は「少ない力で大きなエネルギーを生む」メソッドを追究する必要があったのです。そのメソッドは、日本人の決して恵まれているとは言えない体を美しく整え、柔軟に使うコツと言えます。子どもたちから健康と美を心がけるシニア層まで、また運動能力向上を図るスポーツの方々まで、親しんでいただけるようになりました。
60周年公演では「平家物語」の初演当時の味わいを出すため、振り付け補佐として士田三郎氏の力をいただきました。ご来場くださった皆さまに、日本人の心と生のバレエの味わいが「永遠の一瞬」として心に残るものであったら、これ以上の幸せはありません。私は娘や多くの弟子、スタッフたちと、終わらないカーテンコールに涙し、合掌したのでした。
15年前の白鳥バレエ60周年記念公演は、約2千席の会場を2日間埋め、「平家物語」を久々に鹿児島でよみがえらせました。
自然と走り続けてきた道でしたが、何を残し、何を学び、何ができたのか。自問自答し本音を吐露すると一つの本番へ向けて育てあげ、創りあげることへの執念と楽しさは、時を忘れさせてくれました。もっとも、燃え尽きるほどの本番を終えると、すぐ次への秒読みが始まるのです。それが舞台の怖さと幸せを知る、私たちの常なのです
毎年の定期発表会では、子ども向けの創作バレエのレパートリーを増やしながら、休むことなく上演しました。何千人もの門下生を輝かせてきました。「人生の大切な経験や素養となった」と数十年ぶりに懐かしく訪れる生徒もいます。厳しく育てあげてきたのですが、「優しかった」「温かかった」「楽しかった」「先生が憧れであった」と美しい思い出にしてくれているようで、うれしい。
近年もバレエファンを増やそうと、娘の白鳥五十鈴とともに多くの舞台に取り組みました。2012年には2本立て(ダブルビル)で、鹿児島初上演「ライモンダ」と、昔から親しまれている「ラ・シルフィード」を公演しました。バレエの美をドラマと幻想で対比させた試みで、五十鈴は2役を演じました。中東の民族的な踊りを主軸にした異国情緒あふれる「ライモンダ」は、豪華な婚礼のシーンで終幕となる名作です。和物(「平家物語」)の後はクラシカルな美を、と新レパートリーを存分に披露しました。
2014年には65周年記念公演「ヤマトタケル」をオーケストラで再演しました。作品の味わいをより一層深めることができ、「日本を題材にしたバレエとして名作は数えるほどだが、ベジャールやノイマイヤーだけでなく『ヤマトタケル』も再演を重ねてほしい作品である」と評価をいただきました。
新後援会も発足しました。世代代わりの政財界の方や、五十鈴の先輩方であり鹿児島を代表する有識者の方々から応援やご指導をいただくことは、大きなエネルギーとなり、不況にもめげず上演を重ねることができました。
2015年の国民文化祭では、若手のフレッシュな作品のほか、「ヤマトタケル」の一篇を上演でき、文化の成熟度を示すことができました。久々の県外公演となったのが、同じ年の高野山開創1200年記念「空海劇場」への出演でした。密教の宇宙観とバレエの平安絵巻を融合させた20分間の作品で、オペラの佐藤しのぶ氏ら異ジャンルの方々とテーマを共有でき、刺激的でした。
2016年には五十鈴念願の「ジゼル」オーケストラ公演。五十鈴を授かったのは、私が「ジゼル」九州巡回公演をしているときでした。五十鈴は宿命のジゼルを全身全霊で踊りました。2017年にはバレエに親しんでもらう「楽しい劇場へようこそ」を上演。五十鈴は2017年度県芸術文化奨励賞に選ばれ、私が踊ってから40年ぶりに念願の「シェヘラザード」の制作に勢力的に取り組み、魅惑的に演じました。
私はやらなければならないことがたくさんあり、まだ老いることができません。私の、いまだに軽やかに動く体を励みとして、バレエを美と健康のためのライフワークとしている子どもから大人の方々も増えています。また、運動能力向上を図るスポーツの方々も数多く親しまれています。「白鳥メソッド」「白鳥バレエストレッチ」を基に成長し続ける白鳥バレエを、皆さまがこれからも楽しみにしてくださることを心から願い、筆を置くことにいたします。
平成の最後に、世界遺産が焼け落ちた。人の美徳や慈愛を投影し、祈りや夢が建築として具現化したパリのノートルダム大聖堂。喪失感を共にした全世界が再建へ向け力を合わせることに、深い感銘を受ける。人間は捨てたものではない。言葉無くして説得力を持つものが「美」である。美を守りたいという情熱を人が持つことに、幸福を感じる。
それに比べまだまだ小さな歴史ではあるが、鹿児島で育った白鳥バレエは創立70周年を迎えた。2代目・白鳥見なみは死にもの狂いで歴史を築いてきた。地方都市で心意気を貫くのは並大抵のことではなかった。3代目を継いで数年たった今でも、責任の重さを感じている。
「作品」を創る。一言で言うとそうなるが、2代目は「グランドバレエ」(幕物の大作)を創ってきた。創り上げる過程にレシピはなく、誰も教えてくれない。そもそもどれだけの時間と人手、お金を使うのか。なかなか想像してもらえないと思うが、1分の踊りを創るにも、何回となく音楽を感じ、出てきたものをそぎ落とし、振り付けを創っていく。「音」「動き」「照明」「美術」が一つの世界観のもとで調和するために、何人ものスペシャリストの労力と感性が要る。
音楽は、テーマを濃く描き出さなければならない。作曲家に、踊りとしてどのように表現したいのかを伝え、刺激し合いながら作っていく。衣装も、優美であり、踊りを妨げず、しかも体の動きを美しく見せるものでなければならない。既存の芸術を踏襲するだけではできない。作品の基礎となる部分を構築できたら、あとはスペシャリストに祈りを込めて託すしかない。まだある。踊り手を鍛え上げるには何年もの歳月がかかる。ヨーロッパの文化であるバレエに日本人の感性を盛り込むのも、大変なことである。
「ヤマトタケル」「邪馬台」「平家物語」…。この鹿児島に完成された遺産があるというのに、いったいどれくらいの人が「なま生」で鑑賞してくださったのだろうか。バレエにお金を使わなくても、とくに気にもとめない人がほとんどかもしれない。私は負け惜しみをせず、人の心に届くよう努力を続けなければならないのだと、自分に言い聞かせる。一目見たら分かってもらえるのだから…。
私は今もハングリーである。あらゆるものが既にあるからこその渇き。これは開拓とは違う、私たちの世代共通のものかもしれない。感動的な「永遠の一瞬」を多くの人に届けたい。一夜にしてかき消えてしまうが、心に焼き付く舞台を見てほしいと願う。私たちのバレエが、文化や教育の軸となる魂をつくると信じるから。2代目の洗練を目指した姿やスピリットこそ、継承するべきものだと思うから。何より舞台上演が私たちの本分であるのだから。
海の向こうから、大谷翔平選手の活躍が聞こえてくる。
メジャーリーグでも二刀流を貫き、昨年は本塁打王やシーズンMVPを獲得し、打者に専念する今年も快音を響かせている。
大谷選手の前にも偉大な日本人選手がいた。イチローである。メジャーでもヒットを量産していた頃、白鳥見なみさんは「イチローに会いたい」とよく言っていた。大ファンではあるが、それだけが理由ではない。
「白鳥メソッドを伝えたいの。まだまだ現役を続けられるから」
白鳥メソッドは、見なみさんがバレエ人生で培った経験を基に、理想的な身体作りの研究を重ねて完成させたストレッチのことだ。イチローの体が、よりしなやかになると言う。バッティングフォームを毎年変えて模索を続けるイチローに、何らかのヒントを与えることができるのでは、と思ったものだ。
その願いは叶わず、イチローはその後引退した。メジャーでは小柄ながらも、数々の記録を打ち立てた「小さな巨人」であった。
この言葉はそのまま、全国に誇れる白鳥バレエの実績を積み重ねてきた見なみさんにも当てはまる。白鳥バレエ70周年を前にその半生を振り返ってもらおうと、南日本新聞の連載を持ちかけたのは、私が文化部長を務めていた2017年の暮れだった。
タイトルはすぐに決まった。「永遠の一瞬」。小さな巨人のように、相反する意味を持つ単語の連なり。一夜限りの舞台は、見る者の心に刻まれることで永遠になる。バレエそのものの本質を表していた。
一人語りで綴られた約1400字の連載は、翌年1月から毎月1回、計15回に及んだ。毎回、貴重な写真も掲載した。高校1年生でバレエ団主宰となったときのことを、こう書いている。
「夢中で、考える余裕もなく、ひたすらバレエと学業の毎日。汽車の中、電車の中でずっと勉強し、到着すると稽古。それでもちっとも苦しくはなく、楽しかった。夢と責任で燃えていました」
セーラー服の少女が、バレエはまだ洋舞の一つとしか見られていなかった時代に、しかも地方都市の鹿児島で、いきなり多くの門下生を抱えた。死にもの狂いの努力があったことだろう。
列車で24時間かけて東京に通った。日本古来の物語をテーマにしたオリジナルのグランドバレエを次々と創り続けた。「ヤマトタケル」「邪馬台」「平家物語」、いずれも高い評価を受けた。国内だけでなく海外でも公演を重ねた。試練や転機が何度訪れても、いつも熱意に満ちていた。
見なみさんの来し方を語った連載は、鹿児島のバレエ史でもあった。「本にしましょう」と何度か提案したことがあった。今回、白鳥バレエ75周年を記念して、後援会報特別号として一冊にまとめられることをうれしく思う。貴重な冊子として読み継がれていくだろう。
最終回に、こうある。
「私はやらなければならないことがたくさんあり、まだ老いることができません」
白鳥メソッドでいつも背筋をピンと伸ばし、もっともっと成長したいと願う見なみさんが見守るなか、後を継いだ五十鈴さんのもとで、白鳥バレエはいつまでも羽ばたき続けることだろう。ステージの一瞬一瞬を、永遠の記憶へと変えながら。
元 南日本新聞社文化部長 原田茂樹
2024年7月